なぜ私がケアマネジャーの仕事を続けるのか

今日は私自身が30代前半で遭遇した
ダブルケアの経験から
ケアマネジャーとして介護家族支援の必要性について書きます

周りに介護を経験した人がいない

今、私の子供たちは24歳と21歳です
その子供たちが4歳と2歳の時
母が突然脳梗塞で全身麻痺となりました



当時私自身は32歳だったと思います
周りに介護を経験した友人、知人は皆無



娘は幼稚園の年中、下の息子は未就園児でした
母が入院していた病院は名古屋でしたので
毎日岡崎から片道1時間かけて
二人の子供を連れて母を見舞ってました



全身麻痺で話もできませんでしたが
目は動きましたので
子供たちを連れて行くと目で追います




きっと母の励みになるだろうと
毎日病院へ通うことを自分に課していたんですね




当時、母は父と別居していたので
私たちきょうだいで金銭的にも
母をみていかなければならない状態




1ヶ月すぎ
2ヶ月すぎ



だんだん、自分に課した毎日病院へ行くということが
苦しく辛くなってきたんですね



毎日病院に行く妻を夫は送り出してくれました
最初は心配してくれましたが
そんな日々が続くことで、当時若かった夫も辛かったことでしょう
年を重ねた今では、そんな風に夫の心中を思いやることもできますが
当時、心身ともに疲弊していた私は
夫のちょっとした言動に傷つくこともありました




休みの日に一日子供達を連れて病院へ行き
病室で付き添って帰ると
散らかった部屋の中で
夕ご飯の支度もできておらず
子供たちはお腹が空いたの大合唱
夫は不機嫌に新聞を見ながらテーブルについている




「なんで夕ご飯の支度しておいてくれないの?」
「なんで部屋を少しは片付けてくれないの?」



自分の母親のことで家族に迷惑をかけているという負い目
もっと助けてほしいのに言えない自分




でもそのことを相談する人は誰もいなかったんです
母は59歳で倒れましたから
当時介護の経験がある友人はいなかった




私だけどうして




ダブルケアの日々が続いたことで
正常な精神状態ではなかったのではなかったか
非常に視野が狭くなっていたのではないか
と、今では思えるのですが、当時はそんな状態ではありませんでした

母が亡くなった時に思わず抱いた感情

母は突然倒れてから4ヶ月後
病院で喉に痰を詰まらせて亡くなりました



当時パートでヘルパーの仕事をしていた私の携帯電話に
病院から連絡が入り
急いで病院へ行くと、心肺蘇生されて植物状態の母の姿



弟と妹に連絡を取り
妹は出産からあまり日にちが経っていませんでしたが
神戸から名古屋に来てくれました




夜勤の仕事を終えて弟が夜中にきて
きょうだい三人が揃った午前3時
子供たちに見守られながら母は旅立ちました




母が亡くなった
ものすごく悲しかった
けれど、その次の瞬間



「あぁ、もう明日から病院に来なくて済む。」
悲しみと同時に開放感を感じてしまいました




その時の罪悪感
今でも忘れられません



介護とはそういう一面もあります
大切な人であるけれども
大切な人であるからこそ
自分自身の心と体を脇に置いて介護をしてしまう




今から思うと、疲れ切った私の顔を
母はどんな思い出で見ていたのでしょうか


あの時の自分を救いたい、だからケアマネジャーを続けている

ケアマネジャーとして介護家族に接する時
常に念頭にあるのは



32歳の頃
介護で真っ暗なトンネルの中に取り残されたような状態だった
私と同じような人を救いたい。という気持ちです



自分が抱えている心の状態を話せていたら



病室にお見舞いに行く時
介護で疲れ切った娘の姿ではなく
母に娘の元気で幸せな姿を
見せて見送ってあげられたかもしれない



自分の心身が健全な状態だったら
夫が抱えていた寂しさを理解して
家族の協力を得ながら介護ができたかもしれない




子供を育てながら
仕事をしながら
家のことしながら



介護家族は必ず、何かをしながら介護をしている
介護をする家族支援を充実させること
幸せな介護という概念は十人十色




ケアマネジャーの仕事を続けながら
今こそ家族支援に力を入れなければいけないと考えます



議会の一般質問でもやりましたが
「仕事と介護の両立支援」
介護家族支援をしていかなければ
超高齢社会の日本は崩壊してしまいます




まずは自分自身を満たすことが大切です




介護をする人こそ
まずは自分自身を満たしてあげて
そこから溢れ出たエネルギーで
家族の介護をしてあげてください