母の介護を通して見えた景色
今回は、実の母を介護したときのことを振り返りながら
介護家族としての私の実体験をお伝えします
私が市議会議員に立候補するもっと前
自分が介護の世界に進もうと
決めたきっかけにもなった体験です
突然やってきた「介護」の始まり
母が倒れたとき、59歳とまだ若く
私は32歳で
4歳と2歳の2人の子育て中
思い返すと、ちょうど今くらいの3月のことでした
ママ友と公園で子どもを遊ばせていたとき
突然、母と同居している弟のお嫁さんから
一本の電話がありました
「お母さんが動けなくなっていて
今から救急搬送することになった」
なかなか起きてこない母を
心配したお嫁さんが様子を見に行くと
ベッドの上で意識が朦朧として
何を言っているかわからない状態だったのです
近くの老人病院へ、そして違和感
弟のお嫁さんもまだ若く
自宅から自転車で行ける距離という理由で
母は救急で療養型の老人病院に運ばれました
でも、そこでは治療や検査はできないんですよね
布団をめくってみると、母の足の先が腐っていて
しかも意識がない状態
「このままここじゃだめだ」と
大きな病院へ転院することにしました
複雑に絡む病状と始まる付き添い生活
母は糖尿病を患っていて
ちょっとぶつけた足先の傷から菌が全身に回り
脳梗塞を引き起こしていたとのことでした
しかも一箇所じゃなく、たくさんの梗塞ができ
結果全身麻痺の状態
それでも最初は会話もできました
そのため母からは
「何か食べたい」
「何か飲みたい」
「タバコが吸いたい」
そんな要求が続きました
今でもあの時の母の低い声を思い出します
絶飲絶食の状態で
何一つ応えてあげられなかったことが
本当につらかったそんな中で
私はせめて、体の向きを変えてあげたりして
付き添いをしていました

頼れると思っていた支援が消える瞬間
最初のうちは子どもたちを夫の実家で
預かってもらうことができました
でもそのうち子どもたちの面倒を見ることに
疲れてしまった義両親に
「そちらの家庭の問題だからなんとかして」と言われ
子どもたちを連れて病院へ通う日々が始まりました
頼れると思っていた人に頼れなくなったとき
自分でやるしかないという覚悟が必要になるんですね
さらなる転院と手術
菌が心臓にも回っていて
心不全になってしまったため
心臓の手術が必要になりました
でもその病院では手術できないため
再び転院することに
そして手術は成功したものの
手術前に呼吸状態が悪化したため
人工呼吸器に繋がれることになりました
それまではまだ話もできましたが
人工呼吸器がつくと
体の向きを変えてやることすらできなくなり
響くのは機械の音だけ
それでも私は毎日
2人の子どもを連れて
岡崎から名古屋の病院まで通い続けていました
兄弟で支え合った4か月
妹は出産したばかりで
神戸に住んでいたため頻繁には来られず
弟のお嫁さんと交代で付き添いを続けていました
そんな中「申し送りノート」を作って
医師の説明や薬の内容、家族の気持ちを
共有するようになったのです
4か月の間には
母の足を切断するという経験や
120万円という高額な治療費の請求など
さまざまなことがありました
その頃の私は
知識がなかったために
真っ暗なトンネルの中一人取り残されたような
絶望感の中にいました
朝慌ただしく家を出て、帰るのは夕方
家の中のことが疎かになるため
夫は不機嫌になり
家事に子育てに
治療費のためのパートに
本当にいっぱいいっぱいの毎日を送っていたのです
そんなとき、息子の誕生日に撮った家族写真
笑顔で撮った写真の中に
一枚だけ私がすごく疲れた顔をしている写真が
ありました
話すことはできなくても
目を開けることはできた母が
そんな私の疲れきった顔を見て
「自分の介護のせいで娘につらい思いをさせている」
そんなふうに感じさせていたかもしれません

終わりは突然に
ヘルパーの仕事中、病院から電話がありました
「お母さんの呼吸が止まっています」と
駆けつけたとき
母は痰を詰まらせたことで意識を失い
6人ほどの医師や看護師に囲まれ
蘇生措置が行われているところでした
手術から30日たって
人工呼吸器をはずすことになったため
アラームが鳴ることなく
気づくのが遅れてしまったのです
急いで神戸の妹に連絡し
夜遅い仕事をしていた弟が
駆け付けたのは深夜の3時
兄弟3人がそろったタイミングで
母は穏やかに息を引き取りました
母は自分の子どもたちに
見送られたかったのでしょう
その時にも介護ノートに
「お母さんありがとう」と
想いを綴りました
介護の終わりに感じた開放感と罪悪感
母が亡くなったとき、深い悲しみと同時に
「もう病院に行かなくていいんだ」
「もう介護をしなくていいんだ」
そう思ってしまった自分に、強い罪悪感を感じました
それだけ私は疲れきっていたのです
介護って、終わりが見えないからこそ
家族がどんどん疲弊していくんですよね
家族にしかできないことがある
母が亡くなってから10年以上たったころ
「家族みんなが幸せになる介護ノートの作り方」
というテーマで
セミナーコンテストに出ることになりました
これをきっかけに
つらくて見られずにいた「介護ノート」を
見返してみました
そこには母への想いと
家族が一生懸命支え合っていた記録が
残っていました
そのノートというアナログな記録は
家族の思い出であり
宝物にもなりました
そして今の私のケアマネージャーとしての活動にも
つながっています
家族じゃなくてもできることはプロに頼めばいい
そして家族にしかできない部分に集中してほしい
私も、ケアマネージャーとしてご家族に関わるときは
その気持ちを聞くことを心がけています
介護保険はあくまで
介護を受ける人を支える仕組みなので
介護をする家族まで
カバーすることができないという問題があります
そんな背景から
私が議員を志すときに掲げた公約は
「岡崎市を、日本で一番幸せな介護ができる町にする」
介護を受ける人も
介護をする家族も
介護の仕事をする人も
すべてが幸せじゃないと
幸せな介護とは言えない
これからは介護をする人を支える仕組みを
作っていかなければ
少子高齢化を迎えた日本を
乗り越えていくことができないと思うのです
母を介護した経験を通して
私の人生は大きく変わりました
あの時の苦しさや葛藤があったからこそ
今、私は
「介護する人を支える」という信念のもと
活動を続けています
支える人が笑顔でいられる介護こそ
本当に幸せな介護だと思うからです